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           長谷川家の近・現代史


 長谷川家は明治初頭に軍記(九代当主)の後を清之進が継ぎました。清之進は、明治10年(1877)にロンドンからシルクハット、山高帽、猟銃を輸入し、猟犬を飼育するなど裕福な上流家庭の生活を送っていました。また、清之進は議会制度の導入に伴い、東九条村村会議員、京都府議会議員に就任しましたが、病弱を理由にいずれも数年で引退し、以後、風流人を決め込んで優雅に暮らしていました。なお、清之進は古い親戚である田中謙の長女フジと結婚し、6人の子女を授かり、明治17 年(1884)6月に三男良雄(よしお)を授かりました。良雄は京都府立第二中学校を卒業後、明治35 年(1902)に創設された京都高等工芸学校に第1 期生として入学し、ヨーロッパから帰国したばかりの浅井忠(あさいちゅう)(1856─1907)教授や、武田五一(たけだごいち)(1872─ 1938)教授らから指導を受けました。成績良好により特待生となった良雄は、研究生として学内に残りましたが、浅井忠先生の急逝に伴い学校を離れ、自宅で家業の傍ら画業(水彩画)に専念することになりました。



 大正7年(1918)、清之進が死去したのち、兄たちが早逝していたので、良雄が長谷川家の跡目を継ぎ、十一代当主として家業に当たりました。家業の傍ら絵筆をとり、水彩画を描いたり、依頼を受けて絵葉書や挿絵、陶器などの制作を続けましたが、展覧会への出品などはごく稀にしか行いませんでした。晩年は地域の世話役となり、地元の京都市立陶化(とうか)小学校の校章、校旗のデザインを行ったり、地域の産土神(うぶすながみ)である宇賀(うが)神社の総代や京都府指名の方面委員などをつとめました。

 良雄は中京区東洞院姉小路の川端彌之助(かわばたやのすけ)(洋画家・春陽会)の姉キサと結婚しました。青年川端彌之助は当時、画学生であった長谷川良雄の影響を受けて洋画家になったといわれています。良雄は妻キサが44 歳で早逝したため、後妻としてキサの妹まんを迎えました。まんは一子(名津)を生みましたが、良雄はその後1 年を経たずに59歳で死去しました。

 その後、長谷川の家督は長男の萬里(まさと・十二代) に継がれました。その萬里は昭和18 年(1943)11 月、同志社大学文学部在学中に学徒動員令により召集され、1年余の訓練を経てフィリピン・ルソン島クラーク飛行基地守備隊に派遣されましたが、昭和20年(1945)2 月、米軍の攻撃により戦死しました。



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